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コーチ部屋

一意専心

投稿日時:2016/05/16(月) 06:19

練習中は辛そうな顔をしているのに、練習後に意気揚々とボールで遊び出す光景はいつ見ても楽しそうですね…。
 
安心してください、皮肉ではないですよ。本当にみんなラグビーが好きなのでしょう。時間もない、ルールもない、そういう自由なボール遊びの延長線上にラグビーを捉えられたら、素敵なことだなと思います。
 
試合もまた然り。指導する立場になって思うのは、パフォーマンスの低下に繋がる心身の萎縮から選手を解き放ち、できるだけ自由にプレーさせてあげたいということです。一方で、「不安」や「恐怖」といった、手かせ足かせを外すのが容易ではないことも分かります。とりわけ団体競技において、「For the team」の旗の下、個人個人に常に付きまとう荷物、それが「責任」です。
 
僕(呼称を模索中。先生?)自身、試合前はこの「責任」にとても苦しめられました。組織の伝統と栄光を背負って、試合に臨む。臨まなければならない。善し悪しの議論は置いておきましょう。僕の感覚としては、もはや個人の意志を超えたところでうごめく、巨大な生物との対峙でした。それを弾き返す、あるいは手をとり共存していく心の強さ、柔らかさは最後まで持てなかったように思います。
 
もしも、みんなも同じような感覚を抱えているとしたら。
 
『星の王子さま』の話の中に(国語アピールを怠りません)、「責任」について語られる場面があります。
「時間をかけて世話をしてあげたからこそ、きみのバラは、きみだけの特別なバラになったんだ。」
「忘れちゃだめだぜ。自分が大切にしてやった相手に対して、きみはいつまでも責任があるんだ。」
少なくとも自分の価値観を逆転させる、とても素敵な「責任」の捉え方だなぁと感じました。
 
―きみはラグビーを好きになった。長い時間をかけて、きみだけの特別な“ラグビー”になった。そいつはその魅力できみに取り憑き、傷を負わせ、血を流させ、涙に暮れさせる。不条理で、自己中で。それでもきみはそいつに対する「責任」を持たなければならない。だから、そいつの神聖なフィールドに足を踏み入れたその瞬間から、何度仰向けにされても立ち上がらなくてはいけない。肺が焼け付くように痛くても走らなくてはいけない。絶望的な点差がついても諦めてはいけない。なぜか。それが、きみが好きになったそいつへの「責任」だから。―
 
試合において何よりも真摯に向き合うべき唯一のことは、自分自身の“ラグビー”が好きという誇りだと思います。そう思えたとき、不要な重圧から解放され、身体は少し軽くなるかも知れません。
 
そしてその先に待っているもの。僕はそいつに“素晴らしい景色”を見せてもらいました。何度も。競技人生を終えた今でも。きみたちに会えたことも一つ。だけど、それは遠いいつか、それぞれの「責任」を果たし終えたときに、その目で確かめること。まだまだ先のお話です。
 
【一意専心 ~他に心を動かされず、ひたすら一つのことに心を集中すること~】