部員部屋
闘争の倫理
投稿日時:2011/07/02(土) 07:05
以前にも紹介したことがあると思うが、今のチーム、そして生徒にもっとも必要だと思い、家に大事に保管してある、大西鐡之助先生が書いた「闘争の倫理」を手に取り読み返した。
ここで、一部話を紹介したいと思う。この本は大西夫人から直接いただいたものであり、早稲田高等学院で学園長をなさっていた伴先生から勧められた本である。ラグビーをするもの、教育をするものは必ず読んだほうがいいと渡された本である。
今では絶版であり、手に入ることは少ない。では、本の中身の紹介を・・・・・
スポーツのような闘争の場面で何かアンフェアな行動をする前に、「ちょっと待てよ」とブレーキをかけることのできるような人間にする。そういう教育が重要ではないかと考えるのである。
私がスポーツにおける闘争を教育上いちばん重要視するのは、たとえばラグビーで今この敵の頭を蹴っていったならば勝てるというような場合、ちょっと待て、それは汚いことだ、と二律背反の心の葛藤を自分でコントロールできること、これがスポーツの最高の教育的価値ではないかと考えるからである。
こうした闘争における心の葛藤をコントロールする訓練の積み重ねによって、こういうことを行なってはいけないとか、行なってもよいという、判断によらないで、パッとそのとき瞬時に正しく行為できることが重要ではないか、と考える。
だから人間が人間を教育する場合にいちばん肝心なことは、双方の間に絶対的な愛情と信頼があり、そのとき正しいと思うことを、死を賭しても断固として実行できる意思と習性を作り上げることだと言えよう。
どれほど優れた理論を有し、厳しい鍛錬を重ね、チームワークを整えても、闘志を欠けば勝てるはずの試合に敗れる。そうではなくとも苦しむ。もちろん逆も真である。さらには、闘志に満ちて、理論にも優れ、技術と体力に長けようとも、モラルを著しく欠いては勝者になれない。実際、ささいなような道徳を放置すると大試合を落とすのである。
1977年度、早稲田学院の初の花園出場時のスクラムハーフ、佐々木卓による「大西鉄之祐の定義」
「100の理屈を教え込んでおいて101番目には理屈じゃないと断言できる人」
佐々木によれば、大西は「片方の眼は情熱に泣き濡れて、もう片方は氷のように冷めていろ」と選手に求める。高校生に「死に狂い」を説きながら、興奮した選手を一喝した、という。
「ゲームそのものの抱える問題ー社会との関連ー問題解決の教育的価値」
いかに科学的合理的に戦法や技術を組織づけても、それを行なうプレーヤーたちは生きた人間であり、血が通っているのだということを忘れてはならないのです。最も重要なことは彼らの人間関係であり、チームワークであるということです。と同時に人間そのものが持っている情緒的な事柄を解決できないものをたくさん持っている。
われわれの非合理的な行動のなかで、愛情の問題、危険とか生死とかについての問題、闘争に関する問題、緊急事態のときの問題などは、どうしてもコントロールしにくいものです。しかもそういう問題を、われわれは実際の社会のなかで、合理的なものでは解決できない人間の本質として絶えず抱えているのです。
それをコントロールしていく方法を、われわれはゲームという経験を通じて一つずつスポーツから学ぶことができる。人間の持っている合理的な行動と非合理的な行動という、ふたつのものをコントロールしていく力を育てるものがスポーツのなかにある。それは体験的に積み重ねていくものであって、ただ考えているだけでは決して身につかない。勝利を目標にしてスポーツを行なうそのなかで自分の身についていくものなのです。
また、ここでは遊戯でないスポーツが前提とされる。「負けても楽しければいい」のレベルではここまでの境地には届かない。
実際スポーツやっている時には二律背反の、ええことと悪いことの選択を迫られる場に必ずおかれるんです。その時に、自分の意志でいい方に選択していく、これがフェアであります。それに当たった時に、自分の人間性によって、これはいいことだ、これは悪いことだいうことを、私はこれを「汚いかきれいか」と言ってるんですが、決めなければならないのです。子供はそれはすぐわかるのです。子供はなんかやった時に、この行動は汚い、これはええ、これは汚いからやめる、これはきれいだからやる。だんだん大人になるとそれがおかしくなって、時間がたつと言い訳するようになる。たとえば、五億円の金をポンと積まれたら「そんなもん要らん」というのが当たり前なんですよ。「ああ、そんなら貰っておけ」と、あとから政治献金にしといたらええと考える、そういうような政治家が多い。それはフェアではありません。
われわれはスポーツを通じて闘争の倫理をやっていく。それを教えるのは、スポーツの行動、ゲーム以外にないと思うのです。一度ゲームをさせたら子供は「あいつとやるのは嫌だ」と言います。なぜなら「あいつは汚い、すぐ変な汚い手を使って相手を倒す」という。フェアじゃないのです。そういうのは子供は非常に良く知っています。闘争の倫理とはいろいろなことを言いますが、結局は汚いかきれいかの選択なんです。
社会に出ていくとき、ラグビーをしていたから、勉強ができるから仕事が回ってくるわけではなく、その人の人間性で仕事は回ってくる。正しい判断ができるか、当たり前のことを当たり前にできるのか、礼儀はあるのか、非合理的な行動の中で的確な判断をできるのかが大切。
「2番では意味がなく、1番以外どれも同じである」
大西先生の話にもあるように、2番でいいと思っている間には、この境地には届かない。一番と二番では見る世界が異なる。だからいつも彼らには言う。勝たないと。私の勝たなければ意味がないという中には、心を鍛えることができるからだと思っている。トップをとる意識や真剣さがなければ悩みや努力など葛藤は生まれない。葛藤は壁であり、壁があるからこそ人は考え、解決方法を探す。その行為が人間を大きくする。
中竹さんが監督の時にテーマにしていた「Projection」という言葉がある。訳すと「予測」である。
ラグビーだけでなく、私生活の部分でも先取りして、予測して行動しようとおっしゃっていた。 最初は大学生もできていなかった。次第にできるようになり、試合の場面でも次おこることが予測できるようになった。私生活でもラグビーでも「Projection」はとても大切である。
今、何が大切なのか。今どのような行動が必要なのかわからなければならない。先生や親に言われてから動いているようでは甘い。
次に何が必要ななのか、なにが起きるのかを予測しなければならない。これは日々言われていること。
そして、相手を思いやる気持ち、感謝などもっとそのような気持ちを生徒は持たなければならない。
今、学校に行けるのも、毎日ごはんがでるのも当たり前のように思ってはいけない。
勉強ができないのはあたり前ではない。勉強ができないのはラグビーの責任ではない。時間は24時間。
すべては選んだ道であり、逃げること、辞めることは簡単であるが、それは解決方法にならないし、未だかつてラグビーをやめて勉強できた人間はいない。
つまり人間は追い詰められた中で、苦しい中でこそ悩み成長する。
そのような人間のほうが社会に必要とされる。
ラグビーは人間性が試されるスポーツである。
ある人が言った。「あいさつが出来て勝てるかどうかはわからないけど、あいさつが出来ないチームは絶対に勝てないと。」
ならば、当たり前のことができなければ絶対に勝つことができない。
トップに立つことは難しいこと。しかし、トップを目指さなければいつまでもトップにはなれない。
君たちがトップを目指す気持ちがあれば、必ず手の届くところに導く。それが私の責任であり、目標、夢だから。
同じ目標ならば、道は開ける。
そのビジョンはある。決めるのは君たちの努力である。態度である。姿勢である。
今のままではすべてが甘い。その事実だけが今わかっていること。
君たちが大きく変わることを期待したい。
藤森
ここで、一部話を紹介したいと思う。この本は大西夫人から直接いただいたものであり、早稲田高等学院で学園長をなさっていた伴先生から勧められた本である。ラグビーをするもの、教育をするものは必ず読んだほうがいいと渡された本である。
今では絶版であり、手に入ることは少ない。では、本の中身の紹介を・・・・・
スポーツのような闘争の場面で何かアンフェアな行動をする前に、「ちょっと待てよ」とブレーキをかけることのできるような人間にする。そういう教育が重要ではないかと考えるのである。
私がスポーツにおける闘争を教育上いちばん重要視するのは、たとえばラグビーで今この敵の頭を蹴っていったならば勝てるというような場合、ちょっと待て、それは汚いことだ、と二律背反の心の葛藤を自分でコントロールできること、これがスポーツの最高の教育的価値ではないかと考えるからである。
こうした闘争における心の葛藤をコントロールする訓練の積み重ねによって、こういうことを行なってはいけないとか、行なってもよいという、判断によらないで、パッとそのとき瞬時に正しく行為できることが重要ではないか、と考える。
だから人間が人間を教育する場合にいちばん肝心なことは、双方の間に絶対的な愛情と信頼があり、そのとき正しいと思うことを、死を賭しても断固として実行できる意思と習性を作り上げることだと言えよう。
どれほど優れた理論を有し、厳しい鍛錬を重ね、チームワークを整えても、闘志を欠けば勝てるはずの試合に敗れる。そうではなくとも苦しむ。もちろん逆も真である。さらには、闘志に満ちて、理論にも優れ、技術と体力に長けようとも、モラルを著しく欠いては勝者になれない。実際、ささいなような道徳を放置すると大試合を落とすのである。
1977年度、早稲田学院の初の花園出場時のスクラムハーフ、佐々木卓による「大西鉄之祐の定義」
「100の理屈を教え込んでおいて101番目には理屈じゃないと断言できる人」
佐々木によれば、大西は「片方の眼は情熱に泣き濡れて、もう片方は氷のように冷めていろ」と選手に求める。高校生に「死に狂い」を説きながら、興奮した選手を一喝した、という。
「ゲームそのものの抱える問題ー社会との関連ー問題解決の教育的価値」
いかに科学的合理的に戦法や技術を組織づけても、それを行なうプレーヤーたちは生きた人間であり、血が通っているのだということを忘れてはならないのです。最も重要なことは彼らの人間関係であり、チームワークであるということです。と同時に人間そのものが持っている情緒的な事柄を解決できないものをたくさん持っている。
われわれの非合理的な行動のなかで、愛情の問題、危険とか生死とかについての問題、闘争に関する問題、緊急事態のときの問題などは、どうしてもコントロールしにくいものです。しかもそういう問題を、われわれは実際の社会のなかで、合理的なものでは解決できない人間の本質として絶えず抱えているのです。
それをコントロールしていく方法を、われわれはゲームという経験を通じて一つずつスポーツから学ぶことができる。人間の持っている合理的な行動と非合理的な行動という、ふたつのものをコントロールしていく力を育てるものがスポーツのなかにある。それは体験的に積み重ねていくものであって、ただ考えているだけでは決して身につかない。勝利を目標にしてスポーツを行なうそのなかで自分の身についていくものなのです。
また、ここでは遊戯でないスポーツが前提とされる。「負けても楽しければいい」のレベルではここまでの境地には届かない。
実際スポーツやっている時には二律背反の、ええことと悪いことの選択を迫られる場に必ずおかれるんです。その時に、自分の意志でいい方に選択していく、これがフェアであります。それに当たった時に、自分の人間性によって、これはいいことだ、これは悪いことだいうことを、私はこれを「汚いかきれいか」と言ってるんですが、決めなければならないのです。子供はそれはすぐわかるのです。子供はなんかやった時に、この行動は汚い、これはええ、これは汚いからやめる、これはきれいだからやる。だんだん大人になるとそれがおかしくなって、時間がたつと言い訳するようになる。たとえば、五億円の金をポンと積まれたら「そんなもん要らん」というのが当たり前なんですよ。「ああ、そんなら貰っておけ」と、あとから政治献金にしといたらええと考える、そういうような政治家が多い。それはフェアではありません。
われわれはスポーツを通じて闘争の倫理をやっていく。それを教えるのは、スポーツの行動、ゲーム以外にないと思うのです。一度ゲームをさせたら子供は「あいつとやるのは嫌だ」と言います。なぜなら「あいつは汚い、すぐ変な汚い手を使って相手を倒す」という。フェアじゃないのです。そういうのは子供は非常に良く知っています。闘争の倫理とはいろいろなことを言いますが、結局は汚いかきれいかの選択なんです。
社会に出ていくとき、ラグビーをしていたから、勉強ができるから仕事が回ってくるわけではなく、その人の人間性で仕事は回ってくる。正しい判断ができるか、当たり前のことを当たり前にできるのか、礼儀はあるのか、非合理的な行動の中で的確な判断をできるのかが大切。
「2番では意味がなく、1番以外どれも同じである」
大西先生の話にもあるように、2番でいいと思っている間には、この境地には届かない。一番と二番では見る世界が異なる。だからいつも彼らには言う。勝たないと。私の勝たなければ意味がないという中には、心を鍛えることができるからだと思っている。トップをとる意識や真剣さがなければ悩みや努力など葛藤は生まれない。葛藤は壁であり、壁があるからこそ人は考え、解決方法を探す。その行為が人間を大きくする。
中竹さんが監督の時にテーマにしていた「Projection」という言葉がある。訳すと「予測」である。
ラグビーだけでなく、私生活の部分でも先取りして、予測して行動しようとおっしゃっていた。 最初は大学生もできていなかった。次第にできるようになり、試合の場面でも次おこることが予測できるようになった。私生活でもラグビーでも「Projection」はとても大切である。
今、何が大切なのか。今どのような行動が必要なのかわからなければならない。先生や親に言われてから動いているようでは甘い。
次に何が必要ななのか、なにが起きるのかを予測しなければならない。これは日々言われていること。
そして、相手を思いやる気持ち、感謝などもっとそのような気持ちを生徒は持たなければならない。
今、学校に行けるのも、毎日ごはんがでるのも当たり前のように思ってはいけない。
勉強ができないのはあたり前ではない。勉強ができないのはラグビーの責任ではない。時間は24時間。
すべては選んだ道であり、逃げること、辞めることは簡単であるが、それは解決方法にならないし、未だかつてラグビーをやめて勉強できた人間はいない。
つまり人間は追い詰められた中で、苦しい中でこそ悩み成長する。
そのような人間のほうが社会に必要とされる。
ラグビーは人間性が試されるスポーツである。
ある人が言った。「あいさつが出来て勝てるかどうかはわからないけど、あいさつが出来ないチームは絶対に勝てないと。」
ならば、当たり前のことができなければ絶対に勝つことができない。
トップに立つことは難しいこと。しかし、トップを目指さなければいつまでもトップにはなれない。
君たちがトップを目指す気持ちがあれば、必ず手の届くところに導く。それが私の責任であり、目標、夢だから。
同じ目標ならば、道は開ける。
そのビジョンはある。決めるのは君たちの努力である。態度である。姿勢である。
今のままではすべてが甘い。その事実だけが今わかっていること。
君たちが大きく変わることを期待したい。
藤森